2026年/お正月料理/マヤ暦/火/瞑想
2026年はじまって、今日は新月ですね。
実家のツツジの間にひょっこり根をつけた千両、面白いです。
千両はこうみえてけっこう広がり勢力です。
昨年からしどく抜き8割くらいの食生活で体調がよいので、
お正月はおせち料理を作る気持ちにならず、なますとごぼうの胡麻和え、レンコンのみ作り、
黒豆は最少袋を購入し、魚介類、かまぼこをそろえて、お雑煮ですごしました。
過去には菜食のおせち料理購入もためしましたが、それも甘すぎて、、、
自分で作っても、おせちは結果的に甘いがすぎてしまう。我が家は3人なので、
自分で作ると、食べなければ!!と気が急いて食べすぎてしまう傾向にあったので、もう無理をやめました。
今年は砂糖を使っている食材は黒豆のみで、みりんだけで甘みをだしましたが、しばらく食べていなかった糖度の強さが影響してしまい、お正月明けは、色々食べていなかったものを食べたい欲求が再燃しました。この欲求を観察していて、砂糖ってすごいとあらためて感じました。
冷静になれば元旦1、2日をのぞけば、スーパーも空いていて、おせち料理を作らなければいけない理由もほとんどなくなりました。日本のお正月といえば漆の重箱におせちが詰まっているのは、たしかに美しいものですが、長く持たせるために砂糖で煮るという意味はもうなくてよいものに。その工程の奥までみれば、なんと砂糖量のおそろしく多いことか、、、というわけで、個人的には、砂糖の量が多すぎて、身体が痛くなるので、おせちは毎年少量にしました。年賀状とともにおせちの意味もうすらいでいきます。
私は5−6年マヤ暦を使用していた時期があります。マヤ暦には、土日も正月もクリスマスもなく、フラットな13月20日周期で整然としていました。現実社会のなかで作られたカレンダー内で起きるどこの国のものかわからない行事への騒々しさとは全く関係ない淡々とした日々の中に刻まれた精神的なリズムがあり、それはそれはとても静かで心地よく、一人で暮らしていた時間が長かった自分自身の感性にもとてもあっていました。ご興味のある方はぜひおすすめします。
一方で通常使われている暦は毎月の日数がバラバラとしていて、ことあるごとに行事があり、その行事にあわせて、その気分を盛り立て、もはや急かすように、お店に品物が売られていて、物を買う仕組みになっていて、とにかく慌ただしいです。30歳になり瞑想をはじめると、そんな違和感にも気づくようになりました。私たちはモルモットのように働き、その行事ごとに気持ちを盛られてお金を使うように動いていたのです。これもただ楽しめばいいだけといえば、それでよいのですが、このことによる弊害や自然破壊は当然のごとく多いと思います。客観的に生活を眺めるようになると、あらゆる無駄に気づくようになりました。
そんなこんなで、今でもマヤ暦を使っていた頃の平然とした気持ちは意識にきざまれていますが、結果的に今は普通の暦にのみこまれながら毎日をすごしています。自分自身が冷静でいれば、周りのものが何であれ関係ないと思いながら過ごすことにしたのですが、慌ただしい年末を超えたお正月明けには、とてもマヤ暦がなつかしくなります。今日はマヤ暦の携帯アプリがないかと探しましたら、みつかりましたので、早速これを使うことにしました。
https://apps.apple.com/jp/app/13-20-sync/id384363262
きになる方はぜひどうぞ。
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ちなみに
今月は共振の月
チャネルをあわす、呼び起こす、調律
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今日は赤い月の竜41kinの日
私は 育むために 極性を与える
存在を安定させながら
挑戦という 月の音とともに
私は 誕生の入力を 確信する
私は空間の力に導かれる
>>
(あくまでも一個人の経験上ですが )
マヤ暦の文章は声に出して読むと言霊が魂にひびきわたります。
どういう意味だろうか ?と思うかもしれませんが、
それさえも頭で考えて意味を見出そうとするのをやめてみる。ただ読んでみるといいのです。
そしてマヤ暦をつかいはじめると、自然のリズムに振動しはじめ、
シンクロニシティが増幅します。
新興宗教のようなすすめかたですが (笑 )
けしてそうではありません。
;;;
お正月明けて実家にもどりました。
いつも実家と都内の往復時、車中でほとんど熟睡してしまうのですが、度々声なき声が聞こえることがあります。今回は、おおよそ伊豆の道に入ったころ、「ここから天国になります」と聞こえて、寝ながらにして「やっぱりそうか」と思ったことが印象的でした。
実家では、雨上がりの日のしめった空気の中で、お飾りをもやしました。
火をもやす時間には、あらゆる思いがわき起こります。前日に木の枝と格闘していたためか、どんどん生える枝をどんどん切った方がよいことは、人間も同様だと思いました。自分の芽が出てきたからといって過保護ににぎりしめてしまうようにはならない方がよいと思ったのです。長い間つづけたことを、思い切って一度やめることも枝を切ることにつながります。それでもまた枝は伸びる環境があれば伸びてきます。むしろそのまま上に上に伸びてしまうと、もう手におえなくなることもたくさんあります。人間におきかえれば、だれかに自分のプライドを踏みにじられたとか傷つけられたという場合も、枝切りを手伝ってくれたと思えばよいのだと思いました。ただ、個人的には、自然という観点からは、精神的成長の過程で、意味が見出せなくなった場所や尊重されない場所に居続ける必要はないと思っています。木の枝きりから学んだことは、よくみて、しっかり切っていくことが大事だということ。
キウイの蔓の枝切りはすごいです。たとえ老木でも、枝を切れば切るほど実がつきます。整理をすることの大切さをあらためて感じました。
もうひとつは、今ここという瞬間の繰り返しの中で、自然に毎日を大切に生きていれば自然によくなり自然に昇華していくということ。3次元にいると、情報量が多く、こうしろああしろととにかく気持ちが忙しく、その情報に意識を同一させてしまうがために、きゅうに不安が襲ってきたりすることもあります。ですが、そのスピードは外側がつくったもので、自分の内側、魂との一致ではありません。外側の何ひとつもそうでないのです。自然はもっともっと自然です。まずは、自分にとって真の自然であるように、呼吸を深くして、体をほぐし、力みを手放していくこと。洗脳されてしまっている他者同一化をもっともっと観察して、枝をバスバスと切るようにすることでスッキリします。
だれかにあうことが一番楽しいとか、何かを食べて美味しいとか、何かを手に入れて嬉しいということもありますが、自己内観 ほど奥深く面白いものは他に見つかりません。自己内観の変化は静けさの中で風に乗ってやってきます。辛さや苦しみにおおわれた時にも、無理やりに光を求めたりすることもなく、何かに依存してごまかすことも必要なく、ただ時間を充分とり、ゆっくりと心の中を味わう時間を作る。いつしか闇は静かに明け渡されて、自然に消化されていきます。ときおりふいにおとずれる浄化の素晴らしさはほかのものには変えられません。自己内観が習慣になると、闇の奥にある力みをみつけ出し、より自然を見いだすことができるようになっていきます。すると、外側で光ばかりを求めなくなります。そして、自己内観を続けていくと、自然な魂の成長とは、いったいどんなことかもすこしづつ理解できるようになります。
瞑想する友達の話では、若い人で瞑想する人がものすごく増えているのだそうです。今日もスレッズ内で、あるお母さんが「ある日子供に、今日から瞑想するけどいい?と急に言われた」という文をみつけました。


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