誰かのつくったストーリーから抜け出す
先日動画でみたアナスタシア解説をみて、本来のナチュラルな創造性をほとんど使わないままの生活を送っていることを痛感しました。自然本来の創造をすることからいつからかかけはなれたのかを過去をたどってみると、父の仕事の転勤により、田舎をはなれ、物質社会が本格的に動き出してからだとおもいますが、これも運命です。同時に、瞑想して、ただ「今」という連続をしていると、自然がよくて都会が悪いという分別はあってないような意識になっていきます。でも、「人間には自給自足が何よりだいじ」という思いも昔から意識の奥底にあってそれがゆらいだこともありません。 昨日は都心の公園に行くと、都心の青々とした大きな木々から風吹きぬけて、「都会にいても変わらないでしょ」というメッセージを受け取りました。わたし自身は、「うーん、、、」という心境でした。 地球を俯瞰でみれば、その距離が遠くなればなるほど、田舎と都会を2つにわけて2極化というストーリーに翻弄されることに、それほど意味はないかもしれないとも思うこともあります。どう生きるか、どう生きたかにも星の数以上の意味があってないようなものだとも思うのです。アナスタシアのストーリーには、家族のない人、一人暮らしの人、子供のいない人の想像や、老後の創造がないなということも。美しいストーリーを聞いて、感情が沸き立ち、それそのものになってしまうように感情に動かされると同時に、冷静な観察をする自分はただそれを観ているだけになります。 今のクマ騒動にたとえると、クマ意識になれば、山に餌がないから弱いクマが地上におりてくるのは、人間の環境破壊の責任です。ですが、クマに同情しすぎ、クマに餌を与えたり、人間が手を加えて助けるとなると、またこれはちがう問題をひき起こすのでしょう。何かに「かわいそう」と強い同情で感情的になるときほどややこしい行動をし、鏡の法則のように、知らずにちがう何かを傷つけ、自分自身やまわりの人や事柄をますますややこしくします。 わたしも感情をつかったややこしい経験をたくさんしてきました。感情は愛おしくも、とてもやっかいなものでもあると思います。感情のエネルギーがもっとナチュラルな創造で解放されるといいなと思います。瞑想は、感情をしずめるための手段のひとつでもあります。 神話と言われる美しいお話はたくさんあり、どの世界にも引き込まれそうになりますし、自然の生...



