はじめての介護13/木にふれて自由になる。



先日の公園は花見客がとても多く、まるで運動会のようだったけれど、雨の日はとても静か。
雨の日の景色、グレーがかった水色や薄桃色は心がしんとしずまります。
私にとってこの景色は天海のようでした。
公園でいつも出会う大きな木にもたれかかると「なんとも自分の小さなことか」と、
不思議と心がとても自由になりました。もしかすると人は、なんでもできると思ってふんばるより、なんにもできないと思ったほうがしばられていることから自由になれるのかもしれません。




こちらは田舎のしだれ桜。去年に引きつづき桜のタイミングで帰省できました。
今年は雨のしだれ桜です。

おととい都内の公園で大木に寄りかかったばかりで、昨夜スレッズをながめると、
チベットの山奥で10年修行したという霊能系 ?の方が、「満開の桜にはすざまじいエネルギーがあり浄化力があるからぜひ桜の樹の下に立ってみてください云々」と書かれていたので、朝起きてさっそく田舎のしだれ桜に寄りかかりにいってきました。
あー本当に日本はいいですね。
日本のおごそかななんでもないような静けさや、佇まい。空気感、目にみえないけれどひっそりと漂うものがとてもすきだなとあらためておもいました。

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最近になって気候の変動がはげしいせいか、母がグンとやつれました。寝る時間がふえて、食もほそくなりました。右目のまぶたがさがり、片目が空いているのがみえなくなりました。たんが喉につかえるようになってきたので、そろそろタンの吸引器も必要です。本当にゆっくり老化がすすんでいます。
そのたびにもっと食べさせなければと思います。すこしまえまでは、わたしがとりのこしてしまった魚の骨を口からしっかり出すほど意識もしっかりしていたのに、最近は、食事中ちいさなものでも喉につかえるようになっています。以来、魚だけでなくのどにつかえそうなものは、なるべく細かくして、老眼鏡をかけたりはずしたりしながら、注意深く料理するようにしています。
3回に一度はクイジナートでご飯と魚をこまかくくだいて、梅干し、卵や塩麹などを入れて、片栗粉をまぜておかゆを作るようになりました。ご飯がほんの少しの量でも、けっこうな量にみえるので、たくさん食べたようにみえますが、じっさいにはご飯の量はすこしで、それほど食べていないことが気になり、切り餅を8当分くらいに細かく刻んでおかゆに混ぜるようにしてみるとよく食べます。毎回おかゆだとあきるので、あいまに白米や玄米もはさむようにしていますが、時々玄米も喉につかえてしまいます。
介護をはじめたばかりの頃には、毎日リクエストを聞くと「アジサシアジサシ」というので、毎日魚屋さんでアジを買っていました。いつの頃からかさすがに飽き飽きしたようで、以来アジを食べたいといわなくなりました。
最近ガクンと気力が落ちたのを感じたので、またアジサシの登場回数をふやしました。野菜や海藻を柔らかく煮たり蒸したりしたものの他に、魚屋さんでアジを3枚おろしにしてもらい、アジ刺しと、ぶつ切りにしたアジを団子状にして生姜やネギを混ぜて片栗粉でまるめてお吸い物や味噌汁に入れてアジの団子汁にすると、ペロリと食べます。食欲はこれでひとまず安心。

排泄にも色々な変化があります。便秘になれば血圧があがるし、便を出すときに便器に座りたいと意思表示があるので、排泄がおわるまですわらせて10分15分とたつと、疲労で脱力し、その後に微熱がでたりしてあせります。
昔母が田舎に住んでいてボケはじめたころに「温泉に行きたい」というので一緒に温泉に入り、あがろうとすると「もうすこしはいっていたい」というので、そのままにすると、結局湯あたりして風呂から出れなくなり、大変なおもいでお風呂からかつぎだしたことが2回あったのだけど、今ではトイレもそんな感じです。
いろいろな変化に対応することになれていないわたしは疲れてしまい、時にイラっとして母に厳しい口調になって、そのたびに後悔と反省。「母はもう何も自分ではコントロールできないのだ。」
2度3度とおなじことが続くと、わたしも状況になれて、厳しい口調になったことがどんなに母にストレスをかけただろうかともうしわけなくおもうのです。そうしながら、次の状態への対応と対策を自分なりに考えるようにします。



母にはショートステイに行くことを3日前に告知するようにしていますが、それ以降から様子がおかしくなることもあります。施設に行く前の2−3日は母にも気持ちの葛藤があるのだと思います。でも、当日に家から出て外の空気を吸っていつもの施設の介護士さんたちにお会いすると、母もホッとする様子で一安心です。なにごともなくようやく施設にあずけたあとに疲れがドッと出て、その日はほんとうによく眠れるのです。

母との毎日のやりとりのなかで、母はたびたび人の目をじっと覗きこみ、心の中を読んでいるようです。わたしの思いが明るいときは、母の目もやさしくなります。わたしが、母の排泄のそそしまつのときに、「もうさーお母さん自分で何もできないのにいつまでがんばるの??」なんて心の中でおもってしまった時には、母があの世に旅だった時には、わたしのそういう思いはすべて呪われてしまいそうだなとゾッとするほどに、するどくわたしの目をいつまでものぞきこみます。人は高齢になるほど霊能が強くなるのだそうです。もし自分が年老いてなにもできなくても生きているときには、そうやってまわりの人の心をよめてしまうのだろうかと思うと、とてもせつなく、母にはやさしくしようとそのたびにおもうのです。


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介護は思ってもみなかったはじめての経験です。
介護方法がわからないことは動画をみたり、ケアマネさんや介護施設の方に教えていただくこともありますが、日々の経験のなかでおもいついてできることもたくさんあります。介護がはじめてなのに、自然と方法が思い浮かぶのは不思議です。はじめての経験にはあたらしい学びや自分の内側から自然と生まれる発想やわきおこってくる感覚が色々あります。

SNSでどなたかが、「とにかく人の面倒をみなさい」という発言をしていました。
人の面倒をみることは、責任もともなう大変なことですが、親の介護は、今までにはできなかった経験となり、そしてエゴの浄化もつねにおきています。



わたしは瞑想をはじめたころから、何かするときに基準にしはじめたのは、地球の生命に自分の行為がどう接続されているかどうか、自分の行為の結果が地球を害することにつながっていないかどうかです。完璧を無理に目ざさずとも、矛盾点、不純点をみつけるたびに、そのつながりを再確認をして修正をしています。
地球に自分がどう作用するかを確認して、できるだけ矛盾を減らしていくことは本当の幸せとつながっているのではないか ?と思うのです。地球の核心にあるものと自分の行為にズレがなければ、その時々が苦しい楽しいは、それほど関係なく、ただ経験することにぼっとうできます。

経験にぼっとうしていつか生命が終わっていく。ただそれだけになります。
生きてる中で、自分の行為の奥にあるものをよく観察して、違和感があれば何度もえらびなおせばいいと思うのです。いったんゼロにしてまたはじめる。日々その繰り返しで、ますますなんでもなく自由になっていくようです。








 




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