介護18/9月9日救急の日





この介護記録はショートステイと自宅介護半々の、自宅での母の介護記録。
参考になることはそれほどないかもしれない。けれど、老いてこんなふうになって行くのか、、、と、みえない先への不安のわずかな参考にでもなればいいと思って記録をはじめた。

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2拠点生活。母を都内の施設に預けてから、旦那さんの仕事があけば、私たち夫婦は田舎に数日滞在することを繰り返している。今回の田舎帰省では、ほとんどの日が雨だった。そして都内に戻る日、9月9日。いつもなら、道路が混んでいる時間を避けるため、夜遅い時間の移動を好む旦那さんだが、その日は「立ち寄りたいところがあるから早く出る」と言い、久しぶりにお昼に田舎を出た。車を走らせしばらくして、母を預けているショートステイ先から連絡が入った。
「急な連絡ではありませんが、〇〇様の朝の食事は、3匙しか召し上がっておらず、酸素飽和度が71%、お昼頃に再計測すると86%。看護師から、ご家族さまに、救急車を呼んだ方がいいか、至急迎えに来ていただくかのご相談のご連絡です。」

介護施設から連絡がある場合は、「急な連絡ではありませんが」からはじまると、毎回ホッとする。たとえば、「便が5日以上出ていないけれど、薬を足しますか」など、そう言った細かいことを正確に伝えてくださる連絡がいつもの連絡なのだが、今回は、けっこう急な連絡だった。緊急容態の様子だったので、救急車をよんでいただくようにお願いしたが、その日はちょうど施設の職員さまの数が足りず、「ご家族さまの付き添いがないと、救急車を呼ぶことができません、どなたか至急来てください。」と言われた。
「家族は今車の中で、一緒に行動しているので、あと3−4時間はかかる。」と伝える。
普段であれば職員さまの付き添いで病院にいけると思うが、「今日は人が足りず病院に付き添うのがむずかしい。」と。私は「とにかくあと3−4時間で着きます。」と言うしかできなかった。それから数分後「職員が同乗して、救急車を呼びます。」と折り返しの連絡をいただいた。

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救急の日、9月9日に母は介護施設から救急車で運ばれた。
今回は、もしものことも考えて、家から毎日通える近所の病院に搬送をお願いした。

介護職員さまが、いつものように「急な連絡ではありません」とおっしゃったのは、今回電話対応された責任者の方が中国の方だったからだと思う。そして付き添いをしていただいたのは、いつもおだやかなベトナム系男性職員さま。病院に入ってからも確認のために、丁寧に何度か連絡をいただいた。

介護職員さまも外国の方が増えているが、日本語堪能で、薬の名前も把握しておられ、施設で働いている外国の方は皆エリートだと思う。ただ、時々イントネーションやアクセントがちがったりで、こちらの受け取り理解に誤解が生じやすいが、それは仕方ない。人手不足の時代になり、海外の方に、お世話になり、助けていただいている。日本人が、日本人だけで作っていた日本らしさは、もうすでに消えたのかもしれない。できれば日本らしくあり続けてほしい。けれど、仕方ないことだと思うようになった。すでに、日本というよりも、アジア圏と感じることがふえた。もちろんもっと厳しい入国規制は必要だと思う。


「お母様は今病院につきました。」と男性職員さまから連絡いただいたあと、すこしして、東名を走行中、空にとても大きな虹が出た。こんなに大きな虹をみたのは久しぶりだった。なんの知らせだろう。旦那さんの意向で、いつもより早い時間に田舎を出て都内に向かっていたことが功を奏した。

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コロナの頃、父の死と葬儀がかさなって、兄と感情的な摩擦があってから、田舎に住む兄家族と、東京にすむわたしとのあいだには距離ができた。田舎の人は、東京から人が来るのをとにかく嫌がっていた。田舎には病院が少ないので、それは仕方ないことだったのだけど、私の中には、コロナの時の苛立ちと、父の葬儀のことで、ちいさな嫌悪感がきえずに残っていて、いつか自然に取れるだろうと思っていた。わたしの中で、唯一手放せなかった嫌悪はこれだけだった。

「もしかしたら、これで母もいよいよか、、、」と思ったが、兄家族に連絡しようかどうか迷っていた。旦那さんに「そんなことじゃダメだよ」と言われた。「確かにそんなことではダメなのだ。」。そして、旦那さんのラインで繋がっている兄家族に「母が入院した」と連絡を入れた。


私たちは、田舎を出て、直接都内の母が入院した病院に到着し、看護師さんとの入院手続きに時間がかかった。母の長所を書く欄には、「おおらか、やさしい」短所には、「心配性」と迷わずに書いた。看護師さんには、「看取りは、自宅、病院、施設、どこをお考えですか ?」と聞かれた。私は、その覚悟が必要なのかと思った。東京の家は借家だし、何かあって苦しむなら、病院の方が安心だと思って「病院です。」と答えた。
入院手続きを済ませて、自宅に母の入院に必要なものを取りに戻り、再び病院の母のもとへ。入院してすぐに点滴を打ってから、酸素飽和度も96%に回復し、血圧も熱も平常に戻っていた。顔色は思っていたよりも良かった。


すぐに東京に住む姪っ子次女から連絡が入り、次の日お昼に病院にきてくれることになった。姪っ子長女、次女ともに、同じ時期に2人目の子供が生まれたばかりだが、次女は在宅ワークの旦那さんに子供をあずけて、ちょっと家をあけて、バァバに会いにきてくれた。

母との面会を終えた姪っ子次女を近くの駅まで送り、外で用事をすませて、再び病院の母のもとに行くと、今度は病室で兄夫婦に遭遇した。私の中では、今まで取れなかった、わだかまりが、ぱかっとハズれた。 (兄はどうだろう )。「あっ、このためか、、、」とただそう思った。
長く残っていたわだかまりは、たしかに、しかも自然にとれて、急に気持ちが楽になった。
兄に「2週間くらい入院だって」と話しかけると、兄はうなづいた。
「お母さん、今日はお兄ちゃんもママもきてくれたよ、すごい日だね」と、母の手を握って
頭を撫でながら話しかけた。

1階の待合室には姪長女もきていて、生まれたばかりの子供と1歳の子供が一緒で、 (子供は入室禁止 )母の病室に入れないので、兄嫁が「母と面会したあとに、長女と入れかわる」と教えてくれた。
兄家族は母に会うのは久しぶりだったので、私がいない方がゆっくり話せるだろうと、私は早々に病室から出て家にもどることにした。母は入院した翌日に、なつかしい家族にあえて力になったと思うし、驚いただろう。おかげで、2日目には、入院時よりさらに顔色が良くなっていた。


その日の夜、夢の中で兄の声がした。
「お袋も病院では行けないだろう。多分家にもどってから行くんだろうな」という。ということは、退院してから私のみとりでなくなるということか、、、でも、病院希望と伝えてしまった。そんな風に思って目が覚めた。


入院3日目。
病院にお昼過ぎと夕方2度通う。おかげで運動量がふえた。
母は普段から目やにがたまりやすく、朝蒸しタオルで細かく目元をふかないと、目やにが目にはりついて目元がかさぶたのようになって、目が充血してしまう。案の定、毎日面会に行くと、母の目は、目やにだらけだった。早速濡れタオルで目のまわりをきれいにしてクリームを塗った。ベッドまわりを見わたすと、使用済みのオムツが置きっ放しになっていたり、口腔ケアのスポンジの使用済みや、うがいにつかう水が、紙コップに入ったままになっていて、看護師さんも手が足りないのだろうか、不安になった。若い看護師さんたちが5−6人で、およそ30人くらいの高齢患者様をみているようで、外を歩く看護師さんが、「やってもやっても終わらない。時間が足りない。」と話していた。どの病院もこんな風なのだろうか。毎日見に行くから、いろいろなことが気になってしまうのだ。それぞれのやり方があるのだし仕方ない。母が回復していることにだけ感謝することにした。


昔、高齢者は入院すると途端に痴呆がすすむと聞いていたので、母に会うと、手を握ったり、頭を撫でたり、ヒーリングをしたりしながらいろいろ話しかけた。

「今日は土曜日だよ、いま元気になるように点滴を入れているからね、それで体の中がきれいになったらご飯を食べられるよ」「家にもどったら旦那さんの作った美味しいアジの団子汁のお味噌汁を飲もうね。お母さん、美味しいお味噌汁のみたい ?」と聞くと、薄目が開いて、喉がゴクんとなり、口がすこし開いた。

母が急に「あーあー、あのね、こわかったのよー」という。何が怖かったのかはわからないが、言葉を話す元気が出てきた。旦那が話しかけると、さらに大きな目を開けて、イキイキする。「お母さん、お腹すいた?美味しいもの食べたい?」と聞くと、うなずいて、口を開けて「なんか食べたい、のど乾いた」と声を出してはっきり話した。

「いまは点滴で元気にしてるから、あとすこししたら、何か食べれるよ。」「家はここからすぐだからね。何かあったらすぐに来るからね。元気になったら美味しいお味噌汁飲もうね」
毎回30分くらい話しかけて、2度病院による。
お腹が空くと元気が出るのだろうか。いつになくはっきりとしゃべったので、驚いた。
思っていたよりも元気になってきた。
















 

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