死について


縮みホウレンソウを丸ごと蒸し。
野菜メインの超シンプルな和食料理にもなれてきました。 
縮みほうれん草、野菜の五目煮、自家製の漬物と梅干し、なめこの味噌汁 &旦那さんと母はアジサシを。梅干しと味噌汁は毎日食べています。シンプルな日本食は、身体が安心します。ですが、ご飯が美味しくて食べすぎてしまうのと、スムージーに入れる果物を摂り過ぎてるかな ?たいていの人が糖中毒なのだそう。自身に適量の糖の良い分量を見極めるのはむずかしいです。


先日久しぶりに電車で実家に帰ることにしました。実家にあるパソコンは放置したまま使用できなくなってしまい、重たいパソコンとスピーカーをリュックにしょって持っていくのも辛くなったので、これもデジタルデトックスのタイミングと思い、パソコンを持たずに帰りました。実家にもどり、気づいたら、携帯の小さな画面に張り付いて3時間も経過していました。「これはまずい!!」と思い、遺品整理をはじめました。


絵を描く、文を書く、ものつくりをする人々は創造の時間に没頭できます。長い間、そういった人生を送りたいと思っていたにも関わらず、人生の大半をそうできずに過ごしてきました。
ようやくあきらめもつき、そうならなくてもいいかと思うようになりました。私が時間を気にせずに没頭できることのひとつには、荷物の分類と片付け、断捨離があり、やりだすと止まりません。
今回は実家に大きな箱2箱に残っていた祖父代からの掛け軸の整理をしました。頂き物がほとんどで、高価なものはありませんが、私が子供の頃に母はこまめに掛け軸をかけ替えていて、それをよくながめていました。一つ一つ開いて、いらないと思うものは次から次へとお風呂の釜で燃やして、片付けました。

一方さっきまでみていた SNSの情報で、自然派の精神科医が、「自然が好きという人はたくさんいるけど、そういう人たちでさえ、病院に行って検査して注射打って、薬づけになってる人もたくさんいて、一体何が自然なのかもう一度よく考えてみてほしい」というような投稿をみました。他の医師は動画内で、「医者のほとんどは大抵人間ドッグの検査もしなければ病院にもいかない、薬も飲まない。それが身体によくないことを知っているから」など。また、ころわく薬害問題がきっかけになり「もうインフルのわも打たない、薬は飲まない、医者にも行かない。そうするようになって風邪もひかない」というつぶやきや「死ぬときは自然に死ぬ」などの投稿を読みつらねました。
そのあっという間にすぎた3時間のSNSの情報は、意外にも自分の死や、自然に対する思考を深くみつめなおす機会になりました。先祖代々の遺品整理をしているはずなのに、この時間のつみかさねの先は、自分の死ともつながっていることもひしひし感じ、他者の遺品整理でさえも、自分が死ぬ時になるべく他者に迷惑をかけぬように荷物を少なくする掃除につながっているようにおもいました。

たしかに「自然」という概念と今までよりも深く向きあってみると、あらたな扉が開いたかのように、「死」は今まで以上にくっきりと目の前に立ちあらわれてきました。それはこれからの生き方への問いのようでもありました。
病気になると切ったり貼ったり縫ったりして、薬を飲んで、自然ではないものの力で命を回復させて延命していくのが普通です。私も、どこか調子が悪いなと思うと、すぐに病院に行って血液便尿の検査をします。 便尿血液の検査は、簡素極まりなく、身体の状態がわかるからです。ですが、40代で大腸ポリーブを切ってから、数年に一度大腸内視鏡検査をするようになりました。その度にバリウムを飲み、カメラを飲みます。それはまったく自然と反し、年々身体にこたえるようになっています。
自然ということから考えると、40代の検診でポリーブを見つけていなければガンは進み、ステージが上がり、死んでいたということになりますので、徹底した自然観からすれば、私は40代半ばで本来の人生は終わっていたのかと思いました。なるほど、みょうに深い納得感がこみあげました。


大半の人は長生きしたいと思います。。人口的な先進医療が病気を治すようになったので、自然観と反し、当然自然な人口減少も起こらずに、人口は増加し、人口不均衡の原因のひとつにもなっていたのかもしれません。
そうか、自然観をもっと奥までみていくと、病気になってもそのまま受け入れて死ぬ時には死ぬのがいいという、自然な死を真正面から受け入れる人々は案外たくさんおられるのだなと気づいたのです。
そういえば、「ある動物や鳥は、霊的に、地球の負のエネルギーを昇華して死ぬ役割があるけれど、人間は生まれたときも死ぬときにも地球にとっての負担を残している」とシュタイナーの本で読んだのを思い出しました。にも関わらず、この場に及んでもっともっと長く生きようと思い自然に反した方法で延命をしてしまう人間は、地球にとって本当にむなしい存在、にもかかわらず、地球に対しての謙虚さもまったくない生き物です。植物や動物からすれば、人間はほんとに迷惑な怪物でしょうね。

当然、自分の意思が、自然にもっと生きることを選ぶのであれば、病気にならないようにしなければなりません。そうなると、自然な形で健康でいるように心がけるようになります。
すると、やっぱり「食べること」に、今まで以上に誠実に向きあうことにつながってくるのです。「医食同源」「身土不二」。食べ物は楽しみや快楽ではない、身体のための薬である。
わかっていても、物質社会には、ものや欲があふれすぎ、大抵の人間軸は真理からはずれています。

コロわくの映画も2つはじまってます。ほとんどの国でわは打たない方向になっていますが日本ではまだ推奨されています。その原因となるところも SNS情報の中でみえてきました。これは、戦争だという見識を持っている方々もいます。ですが、 SNSをみていると、これが起きたことで、本当に身体に良い「食」や生活について目ざめはじめている人も増えているように感じます。私も自分の自然観の矛盾を一歩奥までみつめなおすことができました。今いる場所から一歩づつ気づいていくのがいいと思っています。


真理は、自分自身にとって本当の自分自身はどうなのか ??というところをみつめていくことの中にあると思うのです。本当に自然な「食」や生活と向き合うことは、3次元の快楽軸とは違う場所にみつかると思います。ときに厳しさの経過を通らなくてはならない場合もあると思いますが、むしろきびしさが自分への本当の優しさや真理につながっていることもあります。その先には静けさがあり、どうであったかさえもただの経験にすぎないのだと思います。
今の国つくりと同じことで、見直しの時期にはきびしさや冷静さは大切です。
本当の目覚めは、自分の死につながっていく真理の行為なのだろうという理解になりました。自然にいっそう思いをはせながら、自分の中心からずれていた物事を掃除して、自分の中心に極まっていくとき。そうしている間にも自然に死にむかっています。






















 

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