誰かのつくった壮大なストーリー
過去にはボンドのお手軽な金継ぎをしていたので、少し本格的な金継ぎをとおもって一度習いにいってみると、大好きな漆にあたったのか、金粉があわなかったのか、とても調子が悪くなり、、、 (それはいいわけとしても )、それ以来金継ぎをしようという意欲がどこかに消えてしまい、割れた器はずっとそのままになっています。
++++
わたしは幼少期に山の中ですごしたからかもしれませんが、アナスタシアや宮崎駿のストーリーにはまりきることがありませんでした。
アナスタシアも宮崎駿のストーリーもとても素晴らしく、未来の理想像に共鳴し、自分を見つめなおす機会にもなり、影響もうけます。先日動画でみたアナスタシア解説をみて、都心にいると、なんと本来の創造性のない生活を送っているのだろうかと痛感しました。
自然本来の創造をすることからいつからかかけはなれたのか。それは父の仕事の転勤により、田舎を離れ、物質社会が本格的に動き出してからだとおもいます。
瞑想をして、ただ「今」の連続をしていると、自然がよくて都会が悪いという分別も消えてしまいます。もちろん2極化の話はよく聞きますし、自然にいる方が空気が澄んでいて、気がよく通るのも感じますし、昔から「人間には自給自足が何よりだいじ」という思いは変わりません。ただ、「今」という連続をしていると、 現実が良い悪いの判断よりも、ただ「今」だけになっています。昨日は都心の公園に行くと、都会の木々が風に揺れて吹き抜けて、「都会にいても変わらないでしょ」とメッセージが聞こえたような、、、。地球を俯瞰で見れば、田舎と都会、2つにわけることに、そんなに意味はないかもしれませんし、どう生きるか、どう生きたかにも意味があってないような。
世の中には神話と言われる美しいお話がたくさんあり、どの世界にも引き込まれそうになりますし、自然の生活を実践されるている方々は本当に素晴らしいと思います。
ですが、どんなに素晴らしい人にお会いしたり、経典や聖者のお話、神話を聞いたり、学んだり、共鳴することはあっても、わたしはわたし自身なのだということをいつも思うのです。
ですから、誰かのつくった壮大なストーリーにあこがれて、自分の生き方をそのままにいき写すということはわたしには無理があるのです。ただ今生きるしか他に方法がないよねという結論にいたります。昨日のアナスタシアの動画で、そういえば、これから先の創造もまだできていないなと思いました。田舎に帰ったときに、あらためていろいろ創造してみようと思います。今はそういう時期なのかな。
;;;;;
デヴィッドホーキンズの新刊「わたし」が発売されたという情報を見つけ、昔読んだデヴィッドホーキンズを本棚から確認すると、装丁は新しいものの、通訳さんも同じ、まったく同じ本でした。
これはけっこうちゃんと読んだ本の1冊ですが、今となっては内容を覚えていません。
今読むと、わたしには日本語訳がすこしだけ難解かな。
けれど、昨日動画をあらためて観ると、デヴィッドホーキンズはやっぱり良いなと思いました。昨日の動画の「手放し」は、瞑想とおなじですね。


コメント
コメントを投稿