木は無だった。


この公園に通いはじめてから、「本当に木ってすごいな」とあらためて思うようになりました。

実家の窓から山の木が風にゆれてワサワサとするので、木と話をすることはよくありましたが、都心の公園であらためて木のすごさを思うようになったのは不思議です。
30歳クレアボヤンスを学んだレバナ先生に「あなたは木のようになりなさい。」と言われたことを思い出しました。





今までは公園の大木をみながら歩いて「ほんとにすごいな」と思うばかりでした。
そのうちに「なんでこんなに伸びるの ??」と思うようになって、
ある日、木に「なんでこんなに伸びるの ?」と聞いてみました。

すると「いやぁ何にもしてないよ」と。
「ただ植えられただけ」という返答です。

でも病気で育たない木もたくさんあって、それは「運」だと。
地に根を張りさえすれば、太陽を浴び、自然に何もせずに上に伸びて行く。

そんな返答がありました。意外な答えだったのですが、あらためて木の無を感じるようになりました。




その次の日です。母とオンデマンドで「あさイチ」を観ていると、岡部さんという俳優さんが
10数年前に演出家のサイモンさんに出された題目「木になる」をやると、サイモンさんに絶賛されたという話をされていました。その時には「何も無駄なことを考えず、自分はただ佇んでいただけ」なのだそうです。
このシンクロで、やっぱり「木は無」という確認ができました。


自然と交信する会話は、自分の思い込みにもなりやすいと思うのですが、声なき声の返答には、シンクロが起きて、答え合わせの出来事がよく起きます。




人は生きていると「こうしなくてはいけない」という、だれかに教えられたたくさんの思い込みにしばられてに生きています。時にそんな思い込みにしばられて、自分が苦しくなることはたくさんあります。

でも、瞑想を続けていると、色々な思い込みはうすれていくばかりです。
いかにも一般的な「こうだ」というおもいに対して、「それは本当にそうだろうか ?」と思うことがほとんどです。



いくら浄化しても炙り返すように浮き出てくる雑念もあるのですが、無の時間もふえて、ふと、無の先って何だろうと思いながら公園にいくと、木に意識がいくようになり、木から、無になってからも生き生きと成長するということを教わりました。

むしろ無になってからの方が、のびのび生きられるのだなと感じます。

そして木をみて思うのは、土に根をはる大切さです。



いろんな木があります。
伸びる木だけではない。細くなって育たない木もあります。
病気になる木もあります。
それは運。





自然界にあるすべてのものが自然の摂理の中に色々な状況を持って瞬間瞬間にあらゆる場所におさまっている。

いろんな形。
あらゆる状況、状態。
木をみて、大きいからいい、病気だからよくないと思う。
それをいいとか悪いとか、誰がそう決めたんだろう ?

比較という差別意識がなければ、その思考は存在しなかったでしょう。

大きく伸びた木、弱く細く折れた木。
ただそれらはそうあっただけ。そこに意味はもともとない。
大きいからいい、弱いからわるいはもともとない。

その深く染み付いた善悪の差別意識を瞑想をしてはがしていきます。
この意識はなかなか根深く厄介ですが、コツコツ浄化します。











瞑想していて、時々集中できないこともあります。
「後どれくらいで1時間だろうか、、、どれくらい経っただろうか」という雑念が頭から離れないことがあります。
そんな時に、  (1時間という時間をなぜもっとじっくり静かにじっとしていられないのだろう。。。 )とよく思うのです。






「すべてのことにもっとゆっくりと安心して、もっとのびのびとしていて大丈夫だよ」
と木は教えてくれています。


 























 

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