内側のもっと奥に、おかしな自分がいますよ。




選挙が終わったので、夢中になるものがめっきり減り、 SNSや動画をみる時間も激減し、かわりに本を読む時間が増えてきました。

私は本にしても映画にしても、ドキュメンタリーが好きです。

このことについてあらためて思ったのですが、いくらドキュメンタリーといえども、大衆や社会に向けてみせるものとしてプロがつくっているのだから、本当のことのようにみえてしまう。だからこそ、ドキュメンタリータッチ感はいなめないなと。いい年齢になってわかることでもありますね。

読もうと選んだ本については、読書量が少ないせいか、1冊まるまる面白い本は少なくありませんか ?目次の中の1つ2つがメインになっていたり、はじめの方が盛り上がりで、あとはおまけ的な内容だったりすることも ?ケチつけてるわけではありませんよ (笑 )本を読むときの自分のコンディションも関係あると思います。

何十年も前に読んだ本を、機会があってまたあらためて読んでみて、なるほどこんな内容だったのか!!と、今になって内容の意味がよくわかる本もありますね。

私は本でもなんでもそうですが、そのときだけ熱中して、あとになると内容はほとんど忘れてしまうことが多いです。勉強もそうでした。

と、いろんな経験があって、社会にあるほとんどのお金で買うものは、商業的な意味を持って作られています。その奥にあるマジックにますます気づくようになりました。商業的に売るために作られたものを、近距離でみていたときにはわからなかったことですが、もっと外側からそれらをみるようになってそのマジックをリアルに感じる機会が増えました。

中には、自分にとって本当にいいなと感じるものもひっそり佇んでいていることもありますが、最近は、何よりも、本当に美味しいお米と卵と調味料と野菜があればいいと思うようにもなりました。


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最近ヴィパッサナー瞑想でズーム参加瞑想があるので、その時間に瞑想をするようになりました。心機一転な気持ちで瞑想できて、本当にいいタイミングでした。

毎日十人から二十人くらいが参加しています。

今までよりももっと自分の奥に入れるようになりました。

すこしづつですが、自分の内側という感覚とつながりが深くなってきたと思います。瞑想していないときにも、自分としっかりと繋がった生き方ができるといいなと強く思うようになりました。



最近瞑想後に、過去を振り返る機会がありました。

私は、いつから外の社会にあわせることをはじめたのだろうか ?と。ずっとたどってみると、幼稚園からだったのかもと。

はじめて幼稚園に行ったときに、下駄箱でどうすればいいのかわからずに泣きもがいていたのを思い出しました。だからと言って、消極的な性格ではなく、どちらかというと、子供の頃から自分の意見がはっきりしている性格ではありました。

ですが、8歳まで山の中で育ったため、人混みにまったくなれていませんでした。隣の本家と自分の家があり、山をくだり、子供の足で歩いたら1時間弱はかかる道路辺りまで行くと数人の友達がいたような環境でしたので、小学校にあがるまでは、日々の生活にほとんど友達はおらず、猫2匹に、大きな犬とたくさんの虫がいる中で暮らしていました。遠出をして親戚に会いに行くのも、いつもおっくうな気持ちで連れていかれていたのをおぼえていますし、母は、山の中で生まれたことで将来不憫をさせたくないと、度々東京に連れて行ってくれたりしましたが、たくさんの人がいる社会に出るようになり、呼吸が浅くなるような気持ちでした。

特に幼少期には、「なぜこうしなくてはいけないのか ? 」と、あらゆることに疑問があって、無理に外の世界にあわせなくてはいけないという面倒な気持ちがあった記憶があります。そこから親の仕事で、田舎を離れ、徐々に人の多いところへと移っていきました。

人それぞれ、生まれた環境は違いますし、同じ場所で同じ親から生まれた兄弟さえ性質も運命も違いますが、すべては自分で選んでいると言われています。ですが、その土地の磁場や環境はあたりまえのようにその人に深く関係していると思います。


旦那さんは、東京下町生まれで、子供の頃から秋葉原や銀座などにも行っていたようで、人が多いところで生まれ育ったので、人見知りはないようです。私の生まれた田舎でも、今となっては、私よりも、旦那さんの方が知り合いがどんどん増えています。どちらが良くてどちらが悪いかということではなく、生まれた環境は、年齢をかさねても、自分自身にふかく染み付いているものかもしれません。

自分自身をさかのぼって、外側の社会にあわせはじめる前の、本来の自分を思い起こしました。

自分の半生振り返り、いったい、何十年外側向きに生きたのだろうかと、おもい知りましたが、それが現実社会の仕組みでもあり物質社会です。

外側にあわせて調和をせねば!!という、無理で不自然な生き方を、大多数の人がしています。欲望が強欲になり、社会が膨張し、環境が悪化しているのが今でありますが、それさえも自然な宇宙の動きでもあるようです。

人工的に作られたものは自然淘汰されていくそうです。この自然の法則にはさからうことはできないため、これからは人工的に作られたものが自然の力によって壊されて行く時期だそうです。自然の上にコンクリートを厚くしきつめても、コンクリートが古くなれば、自然の威力は再びあたりまえのようにコンクリートを突き抜けます。人間も、外側に波長をあわせて生きている度合いはそれぞれに違うものの、不自然さは自然に淘汰されます。それはやがて体力が尽きるとか、体力が衰えるとか、もしかしたら、怪我や病気や不調かもしれません。

不自然さの度合いには、違いがあると思いますが、外の社会に対して、無理に調和をして上手くやらねばという気持ちはできるだけ少なくしていって、内側向きに自分と調和してつながっていくと、本来の自分の姿がじょじょにみえてきます。自分とつながる生活にすすんで行くと、「あっこれ私だ」という安心の場所がすこしずつわかってきます。

「あっこれ私だ」にどんどんたどり着いていくと、今まで外側に調和させようと必死で隠していた社会的におかしな自分もみることになります。さらに内側に深くつながると、浄化が進み内側が静かになってきます。同時に自分のおかしさも表現できるようになっていくようです。

肩の力を抜いて、本当に自然に自分自身でいられるようになると、私たち一人一人はとても純粋でユニークな存在になっていくようです。リラックスしたユニークな存在となると、本来のままで自然と調和していき、すこしも気張ることなく、裏表一体で、日常が自然に明るくなっていきそうですね。

本来の自分に戻っていくときに、大切だなと思うのは、いまさらですが、体幹 ??でしょうか ?

何よりも、ほどよい運動は一番大切だなと思うようになりました。

それから、ほどほどに日光に当たるようにすること、バランスの良い食事など。

日光に当たりすぎた大根はとても苦いです。でも、ほどほどに日に当たらないと、いい野菜も育たないし美味しくもならない。人間もおなじで、元気がない、不安なときには日光が足りないかもしれませんね。

心身に良いことをいくつか継続して積み重ねることで、自分自身が浄化され、軽快に、明るく面白くなっていくのだと思います。

あけっぴろげで自由な人をみているとほんと面白いなと思います。人はそもそもみんなちょっと変で、面白い存在かもしれませんね。

最近、名誉教授や物理学者、錚々たる肩書を持つ方達が、宇宙人とあって会話したとか、

植物と話ができるなどと本で読んだり、お話を聞くことが増えました。時代が変わってきましたよね。

肩書などは関係なく、そういう回路はいつも開いていたいですね。そもそも、人間もどこかの星からきたそうだし、むしろ自分も宇宙人かもなと感じる人も増えているかもしれません。

私もこれからもっと力みをとって、自由に自然に向けて開いていこうと思います。





















 

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