音楽と本とかさなる時間



度々外部のこと他者のことに夢中になっていると、いかに自分の中を留守にしていたかに気づくようになりました。
私自身はこの年齢になってから、外部への関心興味に力を注ぐ時間がもったいないと感じはじめました。 (外はまったく関係ないという意味ではありませんよ )
あらためてふりかえると、瞑想はしていたものの、とても長い間外側の世界への熱狂さめやらぬ日々を過ごしながら、感情の波を上がったり下がったりしていたものです。それだけエネルギーがありあまっていたとも言えるし、内側につながる方法を瞑想のほかに思いつかなかったとも言えます。

最近は選挙も終わり心も静まり、本を読んだり、音楽を聞いたりする時間が増えました。
久しぶりにマックスリヒターのヴィバルディを聞いていると、以前と同様に、毎日聞かずにいられなくなりました。一度気にいると何度も聞いて CDが傷んでしまうこともよくあります。このCDが痛まないように YOUTUBEでもリヒターを再生しています。

リヒターの音楽のように静かに何度も同じ旋律をリピートする哀愁のある音楽はとても好きです。音楽の哀しみにも、作曲者それぞれに色々な種類があると思います。このメロディは懺悔のような悲しみだなとか、哀愁だなとか、かなり病んでるなとかなど。

リヒターのヴィバルディを聞いていると、思いもよらない過去の記憶が浮き上がってきたり、色々な思いが湧き上がってきて、過去を瞑想しているような不思議な気持ちになります。

今回リヒターのヴィバルディを聞いている時には、今読んでいる本や気持ちともシンクロしていていて、そのことについても多く感じることがありました。
音楽には気持ちを湧き起こす力がありますね。
ふと気になって自然に選択した音楽や本が、絶妙なタイミングでかさなりあい、神聖な世界が浮き上がってきました。

日々の生活の中での何気ない選択のかさなりは自分自身にしか味わえないものです。
昔は職業柄、よく服にたとえて感じていたことです。
服を選ぶ時にも、下着や靴下からはじまり、自分と全く同じ組み合わせで選んで身につけ、さらに家の生活などもを含めると、全世界の人の中で、その重なりをつくったのは、当たり前のように自分しかないのです。当たり前なこの現象を度々とても面白く思うことがありました。
3次元の物質社会で似たような物に囲まれていても、唯一無二の奇跡的なかさなりが、それぞれの中にたくさんあってそれらのかさなりからも、厳密に言えば、その人自身が何気なく作った周波数や波動が滲み出ているのです。それが、言葉や音や記憶や気持ちとのかさなりとなると、4次元からさらに、自然の中で出会う空や海の色、木々や花や草などとの出会いにあわせると、そこから先は5次元以上の光、エネルギーや波動とのかさなりになって、静かな世界の中での奇跡へと昇華されていくようです。
自分としっかり繋がっているときには、その脈々と続く流れに没頭しているように時間がすぎていきます。
この自分自身で自然発生的に作ったものとものが重なりあった周波数は、自然の中にいると、自然にとけて解放されていくのですが、人口密度も物密度も欲望密度も濃い都心にいると、こりかたまってしまうことも多いので、都会の生活では掃除や浄化をこまめにしておくことは大事だと思っています。

時々、外部の何かに夢中になっている自分に気づくようになってからは、外部に集中している時間は、それほどなくていいと思うようになりました。年齢が関係するのかしないのか、きっとそれはすこしづつ必要なくなり、ただ日々自分自身の時間に没頭し続ける時がこの先にくるのだろうという予測の段階に進みます。それがどのような形態かもまだ想像できません。もっと先には創造を超えるような1元性のワンネスの世界が現れるのでしょう。


瞑想では、喜び哀しみ怒りなどの感情はただすぎていくただの感情であるとして、全て同じものであるという観察をします。
今読んでいるタオの本と、マックスリヒターの静かな波長を波のように繰り返す哀しい音と
瞑想の感触は重なり合いながら、次の意識へと私を自然に導いていくれているように感じます。没頭の時間の中でも、自分の中の未熟な意識はどんどん表象されて観察をしているうちにはがされていきます。


音楽を創る人、絵を描く人、自分でなにかを生み出すことは本当に素晴らしいと思います。でも、そうでなくても、色々なタイミングで自分自身のうちに幾重にもかさなりあう奇跡の連鎖は人それぞれの中にあって、そのシンクロニシティは自分にしかわからない素晴らしさでもあると思います。
それを誰かにわかってもらおうとしたり、伝えたいと思うことも自然発生的で良い悪いもありませんが、外に出るのに力みを使うよりは、内側にリラックスして自然に没頭する時間の方が貴重だと思うようになりました。

昔業界では、そういう表現の仕方は「自分のマスターベーションである」と言われていました。外部から委託されたスタッフが多く関わる仕事ならそのようになるのでしょう。
すでに世の意識の動きは、外側向きから、刻々と自らの内側へと向きを変えはじめています。


日々の生活においては、特別な才能がなかったとしても、何も考えずにやるべきことに全自動的に没頭することは、何よりも次元を超えていく力になるのではないかと感じるようになりました。長いあいだ、仕事的な目線が強く働きすぎていて、商業的なものの見方で排除していたような事象、自発的に生み出されたちょっと変だなと思う違和感にも静かに目を向けるようになりました。以来、様々な人々の生き方を前よりもよく理解できるようになりました。



ちょうど今動画でヒルマアフクリントの植物の図録を紹介していて、この言葉を知りました。

「意志の原野への道を辿ることによって、人の思考は明晰になる。
絶えざる努力によって、人は知恵を得、しだいに、根気強く、自らの存在の根拠に到達するだろう。」at  Klint


素敵な言葉ですね。






















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