思考解放のとき
善悪の判断、批判、評価、思念、怒りや不満不安後悔心配というエゴが消えていきます。
思考が消えると頭はカラになります。
これから先、頭をカラにして生きる時代に入っていくように感じています。
選択がある時には、少しは検討したり考えることもあるかもしれませんし、ときには古い方法の残像が浮かびあがり、その残像と向き合うこともあります。それらが剥がれていく過程も経験していますが、以前ほどの深刻さはなく、考えるという行為にも、執着がなく、軽くなっていきます。
私は長い間悩みだらけの人間でした。今思うと、悩みがあるときは、考えても仕方ないことを考えていますよね。自分にあわない欲に執着していたりとか、本来の自分からズレていたり、もしくは時期をあせっていたり、自己信頼を妨げる選択をしている、、などではないかとおもいます。
自分を振り返り思うことですが、こうしたいと思うことがある時には、客観的に見て、自分の強欲を浄化して、器にあう欲になるまで冷静な観察を続けると、無理なく自然な流れに乗ることができるのではないかとおもいます。すると今与えられている環境への不満も消え、無駄な欲を持ちすぎることもなくなり、現状への感謝がわき、必要なものが明確になり、いずれよきタイミングでそうなるかもしれませんが、何よりも、欲をかなえることが自分を幸せにするという大きな勘違いから解放されました。
思考がカラになれば、ただ「今」の連続になり、目の前にあるやるべきことただ没頭してやる流れが動き出します。
とても単純ですが、ただ思ったことをやりはじめると、没頭するようになり、没頭が心を満たしはじめます。心が満たされてくると、自分が自分の中心にしっかりと居る感覚が増えていきます。そして、静けさと優しさが増えていきます。優しさは、今までのように外側の自己評価を高めるために、努めて優しくみせる表面的行為ともちがい、自分自身の心の中にただあるものに変化していきます。
人ぞれぞれの気づきの方法のちがいはありますが、内側からあふれ出る意識に没頭するようになると、力んで自分を外向きにアピールする必要はなかったことに気づいていきます。
「外側むきに力んでいることに夢中になる」
私は、この行為が、自分自身を不在にし、不安や不満を外から拾い集め溜め込み、幸せを見失ってしまう物質主義社会の魔法だったとおもっています。
頭の中がカラになればなるほど、軽さ、静けさ、安心感、自己信頼、本来の自分自身の器に無理のない自然な選択がみつかるようになります。そのさきがどうなるかも、これでいいのだろうか ?も、何もありません。
私は、いつおとずれるかわかりませんが、死にゆくときまでを、自分にとっての最善の状態にするために日々があり、それは力むことや外側の評価とは関係ないことだと思うようになりました。私にとっては、日々の積み重ねを嘘ごまかしなく淡々とすることが悔いない死につながっているように思います。どうせ死ぬんだから欲を満たしたいだけ満たす方法もあるかもしれませんが、私は、透明な魂に対して、無謀に欲望を投げ込みたくないと思うようになりました。ですが日々の積み重ねをしても、いったいいつどんな状態になるのかはわからないというのが運命の事実でもあります。
思考をカラにした濁りのない空気に包まれはじめると、意識が肉体に無理なくすっぽりとあてはまり、全自動のエネルギーの流れがじょじょに噴き出しはじめます。それは自己信頼が整った時から、ハイアーセルフが自分を信頼し、体内に降りてきて、いつの日か胸の奥の操縦席に座り、それからとても静かなささやきで、「あれ」、「これ」、「次はこれ」と指示だしがはじまるような感覚です。いつからか、指示だしと自分の意思が同時に動き出すようになります。そうすると、シンクロニシティがあふれだすようになりますが、そのことにさえも執着は消えています。
いろんなことを見直していますが、お墓も葬式も必要なくなるだろうと思っていましたら、スレッズで同じことをつぶやいている方がいました。もしかすると携帯を手放す時が来るかもしれないともおもいました。もともと携帯持たないで生活してたのに、いつからこんなに携帯なしではいられない人間になっちゃったんでしょうね。

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