とうめい度をたかめる/消えそうで消えないこと
あらゆる出来事の中には本当にいろいろな道の「選択」があるなと感じます。
選択種を意識するようになったのは、
精神性を学ぶのと同時にスタイリストの仕事をしているときです。
スタイリストは、状況に応じて洋服を組み合わせる仕事でもありますが、
その前にある仕事は、まずテーマにあうものを「選ぶ」ことです。
選ぶことを毎日毎日繰り返します。
仕事で選ぶことを繰り返すうち、選択の大切さ、重要性に気づくようになりました。
選択をする時に自分の意識がどこにあるか。
ブレているかいないか。
服を選択することからはじまり、食の選択をし直し、
衣食住、仕事、日常生活のあらゆる選択は精神的な訓練につながっていました。
仕事では、よどんでいるもののほうが多くの人の目に止まって、
澄んだシンプルなものはあまり人目につかないようなことも度々ありました。
社会的な民意の総意と、意識をたかめることは一致しないということは
なんども経験してきました。
民意の総意は、大衆性、ファン心理、宗教的熱狂、欲のように俗性のもので
3次元にありますが、それらは個々の自浄した精神の透明性とはちがう次元です。
たましいのとうめい度をたかめようと意識して生活するようになると、
日常のそこかしこにも選択の機会がおとずれます。
さらに透明性をあげていく選択の道、色欲的なよどみある試験のような選択の道、俗世に沈んでいく欲望の魔物になる選択の道。
おとずれた機会に対して、冷静に判断していく。
自分の欲望を観察して判断して選択する。
もしも、それが自分自身の本当に望んでいる選択かそうでないかわからない時は、
私は「どうぞ最善の方向に進みますようお導きください」とお願いをします。
すると、その数日後には欲望ではない、通常通りの鍛練の積み重ねのある
冷静な方向に進んでいることを感じます。
排他的にあらわれてくる欲望と、自分とつながってストンとシンプルに降りてくる意識は明らかにちがうものです。
自浄を繰り返し鍛練していると、冷静な選択ができるようになります。
一番みじかにある鍛錬しやすいことは、日々の食の選択です。
心身とたましいの健康にとってのよりよい選択を繰り返すうち、
大いなる源とのつながり、信頼感が深くなっていくのをあらゆる場面で
感じるようになっていきます。
食は欲で食べるのではなく、信仰心で食べるとか、食は薬であるとも聞いたことがあります。
体を思いやれば自然とそういった選択に進んでいくでしょう。
よりよい選択を繰り返すうちに、
ある時期から、大いなる意識がやっと自分を信頼してくれはじめたというような
感覚になりました。
油断は禁物で、自浄鍛練は継続していますが、
もう何が起きても大丈夫という信頼感が湧きはじめました。
いろいろな場面で自分が守られてここに存在していることが
理解できるようになってくるのです。
とうめい度を高めるほど、あらゆる脇道への誘導もあります。
審神者の目は進むほど綿密に厳しくなっていくようにも感じます。
ですが、自浄を第一目的にしてそこからぶれることがなければ、
それまでの浄化の経験は無駄になることは決してないと思います。
とうめい度をたかめるほど、心静かにうっすらとなっていきます。
なぜならたましいには純粋意識がやどっているからです。
純度をたかめていくことは、本来は、どんなたましいにとっても最善の道となります。
「消えそうで消えないという感覚がとても大事だよ」
と昔「クンルンネイゴンの行」をしていた頃に
マックス氏に教わったことをよく思い出します。
3次元の価値観は目立つ、濃く見える、大きく見える存在感などですが、
次元上昇していくとそれとはますますちがう価値観になっていき、
自然の中にある一部となっていきます。
もし今、有名になりたいや成功したいと、透明度を高めたいの
両方の意識があるとしたら、
それはいつかどちらにしますか ?という審神者の声なき声が
聞こえてくる日があるかもしれません。
大きなタイミングでは、静かな審神者の声なき声がどちらに進みますか ?
と自分に静かに問うときがあります。
どちらを選ぶのも自由ですが、魂はあきらかに魂の成長を望んでいます。
それが決まってしまうと迷いは消えてしまいます。
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