いま目の前にあらわれていることを目覚めのドアにする


 

毎日瞑想を続けていたのですが、2−3日に一度でいいかなと、少し瞑想をサボっている時期がありました。

ほとんどの人が、家族に見せる姿は本当の姿だと思いますが、瞑想を怠った結果、常に家の中で愚痴ばかりになり、何度も旦那さんに指摘をされていました。


言霊を信用したいとはいえ、なかなかそこに至れない感じで、「これはまずい!!言霊だよ!!」と自分になんども言い聞かせ、毎日瞑想をするようにして、浄化をして、徹底的な自己観察をしました。すると少しずつ愚痴が消えて行き、ようやく内側に静けさがもどってきました。

外から持ってくるものが、心のモヤモヤや愚痴やネガティブなエネルギーになるときには、自分がその場所を選んでいるという「執着」や、「自分の選択に無意識なこと」に原因があります。なので、そこから遠ざかろうと決めました。すると、もうそこから呼ばれなくなりました。

ネガティブエネルギーを生み出してしまう磁場のある場所から離れることで、自分の磁場が整頓されて、自分のエネルギーにあったシンプルな生活になっていきます。

あわない磁場を手放すことは、自分にとってよいだけではなく、そこにいる方々のためにもよいことです。



しばらくして、また自分の中に許せない怒りが持ち上がりました。

「私の見ているものは全て私なのだ」と何度自分に言い聞かせてもなお、「それだけは私ではない、あの人が間違っている」と思いたい強情な自分がどうしても出てくるのです。

この幾度となく出てくる怒りはひいてはかえす波のように持ち続けて3年ほど過ぎていました。

瞑想と浄化をして、長くネガティブを引きずることのない私にしては、随分しつこくて粘着質な怒りのエネルギーでした。

この怒りを思い出すたびに浄化をしたのですが、なかなか根本がとれない怒りで、これは本当に根深い私のカルマで、そのためにこの問題は、私の前にあらわれてくれたのだと思うようにしました。


ある時道を歩いていると、ランドセルを背負った学校帰りの少年が2人で歩いていたのですが、よく見ると、一人の少年 Aが自分の上着をグルグル振り回しながら、もう一人の少年 Bをずっとたたき続けていたのです。叩かれている少年 Bは「痛いよ痛いよ」と言いながらも逃げることはしません。

叩いている少年 A「俺を信用しろ。もう絶対叩かないから。」というと,

少年 B「うんわかった信用する」と言った瞬間にまた 少年 Aが上着を回して少年 Bをバシバシとたたきはじめる。

いつも見かけるのは老夫婦が手を繋いで歩いているようなほのぼのした光景なのですが、今日はとても痛い現場に出くわしたと思いました。

この少年たちを通してこの場に居合わせた意味をたどってみると、「批判」=「怒り」というワードが浮かびあがりました。

自分の中から度々浮かび上がりなかなか消えなかった「怒り」がこの痛い光景に重なりました。

「批判」や「怒り」の感情は、行動に置き換えると、こんな風にいつまでも相手を叩き続けることと同じエネルギーだとハッと気づきました。

この少年たちのおかげで、自分の怒りのエネルギーを映像化して見ることができて、ようやく自分の抱えていた怒りを手放すことができました。


日常の中で、不安や怒り、批判があるときには、その奥に自分が浄化する必要のある原因が必ず隠れています。自分の感情を見ないふりをしたままでいると、そのモヤモヤは一層大きくなるばかりで、疲れやすくなったり、生きているのが辛くなっていきます。

いつも目の前に起きていることに反応する自分の感情をよく観察して、その後浄化すると、自分の中にある問題を、その時々に手放せるようになります。それを繰り返すと、いつも自分が浄化されているので、無駄な雑念に惑わされることがなくなり、「今」だけに集中できるようになります。これが目覚めのはじまりで、想像以上に自分への信頼や多幸感につながっています。

最初はとても難しいと感じますが、自己観察も手放すことも、なれてくると味わいの深い楽しみになります。

目の前で起きている日常の中には、観察して手放す自分のエネルギーがいつも存在していて、そこには目覚めるためのドアがいくつもあります。普通の生活の中に目覚めるドアがたくさんあります。



浄化の方法にはいろいろな方法があります。瞑想を経験するのが一番良いと思います。

動画や本でも探すことができます。

もしも私のセラピー内の浄化にご興味のある方がいれば、セッションの際にお伝えできます。

詳細はhttps://erikosuzuki.com/内のsessionにあります。










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